戦国時代
中国三大謀将にも数えられ
用意周到かつ合理的な策略で
毛利家を勝利へ導いた策略家。
毛利元就
「3本の矢」で有名な逸話がありますが
権謀術数に長けた稀代の策略家で
一代で中国地方統一を成し遂げています。
毛利元就は地方の小豪族から
どうやってそこまで
のし上がれたのでしょうか。
そこには現代のビジネスに通じる
中小企業の生き方や
大企業との戦い方があるかもしれません。
今回のテーマは
策略
です
毛利氏は現在の広島県
安芸の国人領主でした。
近隣には大内氏・尼子氏といった
大大名に挟まれ
生き残るために
大内氏に仕えていました
その時の毛利家の当主は
元就の兄でしたが
23歳の若さで亡くなってしまい
兄の子が大きくなるまで
元就が叔父として後見を
することになります。
元就の初陣は
有田中井手の戦い
です。
大内氏に仕えていた
武田元繁が尼子氏と手を組み
大内氏の主力軍が京都に
行っている隙をついて
反乱を起こしたことで
これを抑えるために
出陣します。
これを見事な奇襲戦で勝利し
元就の名前は一躍有名になります。
その後、尼子氏に乗り換え
更に大内氏に戻るなど
生き残りをかけるために
君主を変えていきましたが
兄の子が9歳で亡くなったために
27歳で毛利家の当主になりました。
ここから元就の策略が始まります。
策略一 安芸国人の盟主へ
元就はまず敵対していた
宍戸氏と話しをしにいき
協力体制を結びます。
そして宍戸氏が繋がりを持つ
中央政権の細川氏と関係を持ち
尼子氏を牽制。
続いて宍戸氏に山内氏を説得してもらい
毛利氏に恭順させます。
更に、疲弊していた
天野氏、熊谷氏助け
尼子氏と手を組んでいた
高橋氏の当主を
策略で忙殺。
こうして元就は
国人の盟主となっていきます。
経営でもそうですが
メリットのある会社とは
敵対するよりも
コラボ企画などで
共闘した方がいいですよね。
元就は国人領主の情報を集め
一つ一つ足を伸ばして
適切な対応をしていった結果
盟主となり得たのです。
策略二 養子送りこみ政略
勢力を広げる元就が
次にしたことは
吉川氏に次男
小早川氏に三男を
養子に送り込んで
その家を乗っ取ったのです。
吉川家の事情はこうでした。
当主が新参者ばかり重用し
重鎮や一族と対立します。
妻の実家が吉川家であったことで
元就は重鎮や一族と手を組み
強制的に当主を隠居・追放し
次男・元春を当主としたのです。
小早川家はこの頃
本家の沼田小早川
分家の竹原小早川
に分かれており
まず元就は分家の竹原小早川家に
三男・隆景を養子に出し
当主としました。
そして本家の沼田小早川の
当主が幼少で盲目だったことを
利用して家中を分裂させ
更に後見人であっと重臣を謀殺。
当主を隠居に追い込み
沼田小早川家を乗っ取って
両小早川家を統一したのです。
こうして元就は
長男・隆元を跡取りとして
「毛利両川」体制を確立。
勢力を拡大していきました。
ここで大事なのは
組織の明確化とビジョンですね。
元就にはこの養子送りこみ政策をする前に
明確な組織のビジョンが
あったと思われます。
他家の情報収集を綿密に行い
チャンスとなったら
すぐに実行に移しました。
未来の毛利家の組織図が
明確にあったからこそ
これが実践できたのですね。
策略三 傘連判状
この傘連判状とは
多数の者が一致団結して
約束を誓うときに
放射状に署名する書状です。
互いに平等な立場で契約を守ることを
明確に表わす意味がありました。
元就は国人領主と共に
この書状に名を入れ
「上下関係の優劣は存在しない」
ことを表しました。
元就は国人領主たちに
君主ではない
ことを提示しましたが
実際は元就が盟主として君臨し
他家を支配していったのです。
ビジネスでも共闘する際は
お互いがどのような立場で
仕事をするかの
明確な立ち位置を決めることが
とても大事です。
上下関係がない
対等な立場ですよ
というスタートを切ったはずが
気づいたらほとんど
売上を持って行かれているなど
ビジネスにはあり得ることです。
契約書を交わす際などは
特に中止しましょう。
そして元就は勢力を拡大し
大内氏を滅ぼし
尼子氏も攻めたて
中国地方統一を成し遂げました。
元就はこう言っています。
謀多きは勝ち
少なきは負け候と申す
情報収集をしっかりして
綿密に戦略を立て
いくつもパターンを考える。
これが出来ないと
負けてしまうということなんですね。
このような毛利元就の人生から
学べることは
① 用意周到な準備
② 人を分析し人身を掌握
③ 強固な組織づくり
になります。
毛利元就の「策略」は
いかがでしたでしょうか?
歴史の偉人から学べることはたくさんあります。
歴史を学び、今に活かし
ご自分の経営に活かしてください。